いつかまたね 交点の先で

この歴史を後世に語りたいのです

わたしくらいわたしの「好き」を肯定してもいいじゃないか

「明日発売の、文学界2月号に『火花』という小説を書かせていただきました。大切なものについて書きました。載せていただけることが嬉しいです。見かけましたら撫でてあげてください。」

ピースの又吉さんが純文学小説で文芸誌デビューしたと聞いて、たまらず『文學界』を購入した。元・文芸部のくせに文芸誌を買ったのはこれが生まれて初めてだ。

わたしは又吉さんの著書の『第2図書係補佐』や『東京百景』を読んで以来、彼の書く文章のファンである。又吉さんの小説の感想はまた次の機会に書くとして、ここでは、書店で一冊だけ残っていた『文學界』をちゃんと撫でておいたことだけ報告しておきたい。素直。



以前、大学で行われた講演会で、又吉さんは太宰治の『人間失格』についてこんなことを言っていた。

皆さんも悩みがありますよね。でも人に相談したら「あんたより大変な人いっぱいおんねんから」と言われることってありませんか。黒板をギーッとひっかく音がとにかく嫌だとか、他人にはたいしたことないと思われる悩みが、ほんまの悩みやったりする。悩みが比較され、その大小で問題にされないことがある。その状況ってどうやねんと批判的に言っている小説ではないでしょうか。
他人に同情されないネガティブな悪人の悩みを扱い、当事者にとってのほんまの痛みとはどういうものなのかを、問うていると思う。

Twitterだったら即ふぁぼして「わかる」とリプを送りたいくらいとてもわかると思った。ツイ廃特有の共感の仕方である。


ところで、これって「好き」って感情にも言えることのような気がする。どうして「好き」っていうプラスのはずの気持ちを他人と比較されなきゃいけないのだろう。わたし自身もよく自分と他人の「好き」を勝手に測り勝手に比較して勝手に凹んでしまう。


話は変わるが、わたしは運動音痴である。わたしの経験上、運動神経の有無は所謂スクールカーストの大部分を左右すると考えている。

例えば、小学校というのは往々にしてドッジボール至上主義的な所がある。兎に角ドッジボールが強い奴がモテる。わたしにとってドッジボールとは、いかに存在感を消し標的となるのを先延ばしに出来るかを競うゲームであった。ボールから逃げ惑うのはそれなりに上手かったように思うが、ボールの扱い方が異様に下手なので、最後の一人として内野に残っても形勢を逆転することなど出来なかった。ただただ己の無力さを呪った。

足が遅いので鬼ごっこも好きじゃなかった。ジャンケンで勝っても、すぐに捕まって鬼になる。そして一度鬼になると他の子にタッチするのは至難の業であった。結果的にずっとわたしが鬼。everyday鬼。everytime鬼。わたしだけ半永久的にリアル鬼ごっこ状態である。

持久走や水泳も壊滅的だったが、個人種目はまだ良い。わたし個人の記録がどんなに悪くても他人に迷惑を掛けずに済む。しかし、集団で行う競技は地獄だった。特に球技。球技は、こわい。

今でも忘れられない記憶がある。中学校の体育の時間のこと。バレーボールをしていたわたしに、般若みたいな顔をしたクラスの中心格の女子が言った。「リリーさん、いい加減にふざけるのやめてくれない?真面目にやって欲しいんだけど」と。
弁解させて頂くと、わたしは至極真面目にバレーボールをしていたつもりだった。何ならチーム内で一番バレーボールというものに対して畏怖を抱き、深刻な気持ちで取り組んでいたと思う。当時はショックだったが、今考えるとうっかりサーブが後ろに飛んでしまうような運動神経ではそんな風に言われても仕方ないかも知れない。


そんなわたしが唯一戦うことができる土俵が書くことだった。どうやら自分は同世代の他の子たちより文章を書くということにおいては少しだけ秀でているらしいという自負があった。スポーツの大会で表彰台に立ったことはいちどもないけれと、作文コンクールでは入賞して賞状を貰うこともあった。今考えれば全然大したことじゃない。もっと文章力がある子なんていくらでもいた。だけど、書くことが「好き」だという気持ちだけがわたしの支えだったのだ。


最近、気付いたことがある。昔は自分の苦手なこと、つまり運動音痴であることがそのままコンプレックスだった。だが、今はそんなに深刻には考えていない。単純に運動をする機会が減ったということもあるけれど、運動音痴をネタに昇華することも出来るようになった。その代わり、という訳ではないかも知れないが、素敵な文章を書く人に対して抱く憧憬に嫉妬にも似た感情が混じるようになった。「わたしもこんな文章が書けるようになりたい」という気持ちも、強すぎると純粋な羨望とは少し違うものになってしまうのかも知れない。


書くことが「好き」だったはずなのに、それを他の人と比較した瞬間、コンプレックスと化してしまう不思議。この、「好き」を比べるということは、ジャニヲタの世界ではよくあることだ。古株・新規という言葉でファンは分断され「好き」の度合いで争う。だけど、わたしの「好き」とあなたの「好き」は全くの別物で、そもそも「好き」を測る尺度など何処にも存在しないのだ。

他人と比較することで、自分の「好き」を捨ててしまうのは、もったいない。


わたしは、文章を書くことが好きだから文章を書くという自由を、これからも失いたくないと、思う。


以上、恐ろしく回りくどい「ブログ始めました」のお知らせでした。