いつかまたね 交点の先で

この歴史を後世に語りたいのです

アイドルを物語消費するわたしたちとストーリーテラーとしての櫻井翔 ~34歳の櫻井翔さんに寄せて~

人は誰しもが自分の生きる道の中に物語をつくる生き物だと思う。

博士の愛した数式』で知られる作家の小川洋子氏は『物語の役割』という著書で以下のように語っています。

たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようをする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。

人間は生きている限りは誰でも傍らに自分の物語を携えている。「そして、作家は特別な才能があるのではなく、誰もが日々日常生活の中で作り出している物語を、意識的に言葉で表現しているだけのことだ。」と小川氏は言う。

この一文を読んだとき、わたしは、作家が「自分の物語を意識的に言葉で表現する人」であるならば、アイドルは「自分の物語をその人生を通して多くの人と共有する人」ではないかと思いました。

 

そう、アイドルと物語は切っても切り離せない関係にある。

 

例えば、ジャニーズ楽曲大賞という年に1度ファン主催で行われている非公式の企画があります。その年にジャニーズ事務所所属のアーティストが出した楽曲の中で自分が良いと思ったものにファンが投票する、いわゆる楽曲版の人気投票のような企画なのですが、その結果発表の際にはランキングだけでなくファンの楽曲に対する熱いコメントにも大きな注目が集まります。そのコメントを見ていると、ファンがアイドルの楽曲について語るとき、その曲が持つ「物語性」を抜きにしては語ることができないのではないかと思わされるのです。

今回のジャニーズ楽曲大賞2015で楽曲部門の1位に輝いたのは、嵐の『愛を叫べ』でした。この曲に寄せられたコメントを見ると、「かわいい」「明るい」「振り付けがいい」というような感想と共に「嵐らしい」という言葉が多く並んでいます。この「嵐らしさ」というものが具体的に何を指すのかということはここでは置いておきますが、おそらく嵐がこれまでにリリースしてきた『Love so sweet』や『Happiness』のようなポップでキャッチーな楽曲、そして嵐自体が持つ「仲が良くて楽しそう」という印象から形づけられたものだと考えられるでしょう。そして、「国民的アイドルである嵐が自分たちのマドンナ的存在だった花嫁に『お前は今でもアイドルさ みんな大好きだぜ』と歌うウェディングソング」という構造にときめきを見出している人も少なくありません。このようなコメントは厳密に言うと楽曲自体への感想ではなく、楽曲とそれを歌うアイドルが持つ「物語」への感想だと言えます。

ちなみに楽曲部門の2位はV6の『Wait for You』でしたが、歌詞やメロディーや振り付けなどの魅力に加えて、「デビュー20周年を記念するアニバーサリーソング」という「物語」がその人気を後押ししたことは間違いないでしょう。

 

さて、ここからがようやく本題ですが、今回、わたしは、アイドルエンターテイメントの本質が「アイドルの成長ストーリーをコンテンツとして消費・体験する」ということにあると仮定します。この考え方をすると、当然、大衆がひとりの人間の人生をコンテンツとして消費することは果たして許されることなのか?という問いが浮上するだろうと推測できます。しかし、その功罪(特に罪の方)について、すぐに答えを出せる人がこの世にいるとは思えないし、わたしも今回はこの点について議論するつもりはないということをここで前置きしておきますね。


アイドルの魅力とは、アイドルの紡ぐ物語を読んでいく営みにあるとするならば、嵐に惹かれる多くの人も彼らの「物語性」に魅了されていることは間違いないでしょう。そして、その「嵐」という物語のストーリーテラーの役割を果たしているのが、櫻井翔という人であり、彼の書くラップ詞なのではないかと思います。

わたしは、彼の書くラップ詞は大きく二つに分けることができると思っています。一つが、楽曲の世界観の中の情景を描写する「フィクションのリリック」。そしてもう一つが、櫻井翔・そして嵐としてのリアルな言葉を発信するための「ノンフィクションのリリック」です。

そして、彼が後者の「ノンフィクションのリリック」を節目節目で書き残してきたことが、結果的に「嵐」という物語をより魅力的な形に再構築しているのではないか、というのがわたしの考えです。

 

ここで、わたしが勝手に「ノンフィクションのリリック」に分類しているラップ詞のうち、特に代表的なものを挙げておきます。

『Thema of ARASHI』(2002年)※SHOW名義
『ALL or NOTHING ver.1.02』(2002年)※SHOW名義
『La tormenta』シリーズより、『La tormenta 2004』(2004年)
『Anti-Anti』(2004年)☆ソロ曲 ★未音源化
『スケッチ』(2004年)
『COOL&SOUL』(2006年)
『Hip Pop Boogie』(2008年)☆ソロ曲
『Re(mark)able』(2008年)
『5×10』(2009年)
『Attack it!』(2009年)
『Rock this』(2011年)
『Take Off!!!!!』(2014年)
『Hip Pop Boogie Chapter2』(2015年)☆ソロ曲 ★未音源化 ←new!

あとはここに『ペンの指す方向』シリーズなどの音源化されていない曲、そして『ファイトソング』(2007年)『エナジーソング~絶好調超!!!!~』(2011年)あたりを付け加えればほぼ完璧でしょうか。(厳密に言うとファイトソングにラップ詞はないけどね!)

 

この記事を書くにあたり、わたしは大塚英志氏の『定本 物語消費論』という本を読みました。「物語消費」とは、ビックリマンシールシルバニアファミリーなどの商品にみられる消費形態です。大塚氏は、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」(世界観や設定に相当するもの)が消費されているのだと本書で指摘しています。

難しい概念なので少し詳しく説明しておくと、80年代に子どもたちの間で爆発的なヒットとなった「ビックリマンチョコレート」という商品は、<チョコレート>としての使用価値は皆無でした。子どもたちはその商品を買うと、<ビックリマンシール>を取り出して、<チョコレート>はためらいなく捨てていたのです。当時、「ビックリマン」というマンガやアニメといった原作があったわけではありません。では、どうして子どもたちはそんなに「ビックリマンチョコレート」に熱中したのか。そこには以下のような仕掛けがありました。

①シールに一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が記入されている。
②この情報は一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを集め組み合わせると、漠然とした〈小さな物語〉―キャラクターAとBの抗争、CのDに対する裏切りといった類の―が見えてくる。
③予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。
④さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話的叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する。
⑤消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにさらにアクセスしようとする。

 

消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉の体系を手に入れるため、その微分化された情報のかけらである〈シール〉を購入していたわけである。

そしてこのような消費行動を反復することによって自分たちは〈大きな物語〉の全体像に近づけるのだ、と消費者を信じこませることで、同種の無数の商品(「ビックリマン」のシールなら七七二枚)がセールス可能になる。

 

消費されているのは、一つ一つの<ドラマ>や<モノ>ではなく、その背後に隠されていたはずのシステムそのものなのである。しかしシステム(=大きな物語)そのものを売るわけにはいかないので、その一つの断面である一話分のドラマや一つの断片としての <モノ>を見せかけに消費してもらう。このような事態をぼくは「物語消費」と名付けたい。

 

わたしは、アイドルに関してもこの「物語消費」がなされているように感じます。消費者(=わたしたち)は、アイドルが日々提供してくれる〈小さな物語〉を消費することで、実はその裏に隠れた〈大きな物語〉(物語の設定、世界観)を消費している。消費者は、〈大きな物語〉への直接のアクセスは許されていない。その代わり、〈小さな物語〉という断片からそれを覗くことができる。ここでいう〈大きな物語〉が「嵐」という物語だとするならば、そこにアクセスするための〈小さな物語〉は、翔さんが今まで書いてきた「ノンフィクションのリリック」なのではないか、と。

わたしが嵐のファンになったとき、一番楽しくて一番ドキドキしたのは、翔さんが今まで書いてきた「ノンフィクションのリリック」を通して、これまでの「嵐」の物語を読むという営みでした。まさにわたしこそが嵐を「物語消費」している張本人なのです。大塚氏によると、「物語消費の世界では、その世界を管轄する管理人=ゲームマスターが必要になる」そうですが、わたしにとってのゲームマスター(≒ストーリーテラー)は櫻井翔なのです。


翔さん。わたしはどうしてこんなにあなたの書くラップ詞が好きなのかとずっとずっと考えてきました。その答えはまだ上手く言語化することができなくて、それはこの記事の乱雑さを見れば一目瞭然だと思います。だけど、たぶん、わたしはあなたの物語を読みたいんだと思います。あなたの、そして「嵐」の物語を読みたくて読みたくてしょうがないわたしにとって、あなたの書くラップ詞はどれもこれもすべてが宝物みたいな言葉たちなんです。

2015年、33歳の翔さんが『Hip Pop Boogie』をアップデートしてくれたことに、わたしの心は震えました。『Hip Pop Boogie Chapter2』という曲は、そのリリックは、わたしの希望です。大の大人も、大きな愛を抱いたり、願いたい未来をまた描いたりできるんだね。その瞳の中にある未来をわたしも見たいと願うのは、わがままかも知れないけれど。あなたの背中を追いかけながら、これからも一緒に歩いていってもいいかな。


櫻井翔さん、34歳のお誕生日、おめでとうございます。

あなたのことが、大好きです。